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よみがえれ!野口金次郎の野生のパワー
関東大震災直後 浅草の十二階の倒壊
      (関東大震災直後の浅草十二階「凌雲閣」)

関東大震災その当時は、大正大震災大火災と言った。1923年(大正12年)9月1日関東全域を襲った。マグニチュード7.9、相模湾北西部を震源とした大地震であった。

当時の様子を写真などの資料によって知ることが出来る。僕の子供の頃には祖母などがそのときの様子を詳しく教えてくれたものだ。9月の大地震発生時から翌年の1月まで体に感じる余震は1800回以上あったと記録されている。古今未曾有の大地震であった。

焼け出された被災者は、上野公園に集まった。その数50万人以上だったという。当時は下水道やトイレなどそれに対応する機能は無かった。帝都は立ち直りようの無い状態だと言われた。大正12年9月12日には「詔書」が大正天皇の摂政名で出ている。すなわち後の昭和天皇である。その書には「帝都復興のことを・・期す」とある。しかし、被災した人々は飢えと病に苦しむことになった。

そのような状況下で療術師は活躍した。川上又次の霊気療法をやる者や臼井霊気療法をやる者が随分活躍したという。そんな中の一人が少年野口晴哉(野口金次郎)だった。彼は大震災に遭ったときのことを次のように述べている。

「僕は咄嗟に二階から隣の屋根の上に逃げた。地震は何度も揺り返しが来た。階下にいて潰されたり、飛び出して怪我をした人もいた。
浅草の十二階が二つに折れる瞬間を見た。火の手が下町一帯にひろがって行った。」(野口昭子「朴歯の下駄」より)

大日本雄弁会講談社編集「大正 大震災大火災」(大正12年10月刊行)には、凄まじい様子が写真と文字で記録されている。震災直後の記録なので生々しい。野口少年は大震災直後「手当て」をはじめる。それ以来死ぬ直前まで本能によって「手当て」をやり続けた。名称は輸気だったり愉気と言うが、やっていることはこの時分にやりだしたことから出ていないのだと思う。

考えてみると僕らの世代は完全に戦後であり、物も豊富にあった便利な時代だった。僕らの先人達は大震災やら大恐慌やら大戦争で酷い目に遭い、子孫には辛い思いをさせたくないと思って懸命に労働したのだと思う。野口先生だってその一人であり、世の中が良い方向に行ってほしいと思っていたことだろう。日本人が日本人でなくなることも予測していたと思う。

今日から我が会も2年目に入る。今後の活動の課題として法人化がある。現在、法人化準備室が稼動しつつある。また僕自身、僧職復帰を進めつつある。だが野中操法や滝行気合の啓蒙はずっと続けてゆく。思うのだが、より日本的なもの、日本の文化の根幹に触れるものを次世代に残してゆく事が、今の日本、今後の日本に最も必要なのではないか?今という時代は実際には人心は荒廃しきって、大震災以上の状況が覆っているのではないか?物質的に不自由は無いので気がつかないが、すでに取り返しのつかないところまで日本は来ているのではないか?と。

いまこそ野口晴哉師のような「野生力」が必要だ。「人体放射能」は人間の裡の野生的パワーが土台にあるのであり、それが日本人の「腹の力」の源泉だと思う。一人一人が自らの裡なる野性的パワーを自覚して「いのちの力」を発揮する。そのような自覚の「縁起(よすが)」になること、これが野中操法研究会の理念であり今後の抱負でもある。

講談社刊 大正大震災大火災
講談社編集「大正 大震災大火災」
| kawashima1092 | 08:41 | - | - | - | - |

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