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野中操法 【操法の根源の力:『徳』】(その2) 
昨日は『徳』ということについて書いた。
良き影響を与えるのも、後世に業績が残るのも、操法が魂にまで及ぶのも、すべて『徳』次第だということである。

昔から「陰徳あれば陽報あり」という。
陰のお徳を積むことこそ尊いというのである。中国では「積善の家に余慶あり、不積善の家に余殃あり」という。古諺というのはとても含蓄がある。

僕は徳を積むために「己の計らいを捨てる」ことが先決だといった。
このことに間違いないのだが、では己とは一体なんなのかということが問題になる。人間には自己防衛本能というものがあり、自他を区別する。自分をまず守ろうとするのはあたりまえだ。それを、自分自分ではなく、人様人様にするのだと述べた。自分が真の意味で救われるためには、自分というものを放擲しなければならないのである。自他を区別するところに、迷妄があるのだと仏家は説くのである。

自他を区別する、こういう見解を「二元論」という。
自分と他者が切り離されているものではない境地、これを「悟り」というのである。この二元論のもとが煩悩であり、『唯識三十頌』などで説く、四我というものである。唯識とは仏教のほうの心識論であり、人間の意識をいくつかの層に分けて考えている。普通に言う表面の意識、意識下の潜在意識、更に奥の深層意識。近代の心理学的な意識の分類を数千年前から仏家はしていたのである。驚異的なことであると思う。

意識下の潜在意識のことを「第七マナ識」という。実は、ここに「自我」というべきもの、四我があるのである。四我とは、我癡・我見・我慢・我愛のことである。常住普遍の我れがあるという見解。我れがあるというおごり。我れに対する執着。我れの本質がわからない愚痴。人間の潜在意識には、このような識があると仏家は考える。確かにそれはそうで、滝行などの修行をするのは、魔境のもとである、この四我に対応するためであると言ってもよい。

徳を積むと言う場合、この自他を区別する心、四我というものを超克しなければ、真の意味での『積徳』にはならないのである。山本玄峰老師は、自然の徳、道理がわかってくると、といわれている。僕はさまざまな修行体験から、野口晴哉先生は本当に偉い先生だと感心する。整体操法に於ける訓練法は、まさしくこの「狭い我れというもの(四我)」を超克することができるものなのである。その技法によって、あるがままの天心になれるということである。「積徳」という観点から整体操法の技法を考えないのは惜しいことであると思う。野中操法によって腹を整え、腹部操法で臍下丹田に活を入れる。それによって操法を受けた方々を自立せしむる。幻の整体操法とは『積徳』の修行法でもあるのだ。
| kawashima1092 | 00:18 | - | - | - | - |

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