Entry: main  << >>
野中操法 【操法の根源の力:『徳』】 
決して短くはない治療人生で、一体なにが効いているのか分らないということがある。治療行為というのは、医者でなくとも「ラポール」を形成する。こういう特殊な関係性があると治療の効果は高い。技術が効いているのか、気持ちの変化により効いたのか分らなくなる。両々あいまってのことなのであろうが、どちらかというと気持ちの変化というのが大きいのではないかと思う。

では、何に拠って信頼関係は築かれてゆくのだろうか。人生経験があるからとか、人間性だとかいろいろな言い様や理由があると思う。僕をして言わしむれば(敢えて申し上げるが)、それは『徳』であると思う。

徳とか不徳とかいう。人間である限り誰でも「徳」はある。しかし不徳な行いをしていると、徳を損ずる。人の運や他人への影響というものは、「徳」というものが介在しているのではないかと思う。みなさんはどう思われるか?

臨済の傑僧に、白隠禅師の再来といわれた、般若窟:山本玄峰老師がいる。この方は、終戦の際に流れた「玉音放送」の中の、「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」という部分を述べたとして有名である。この老師の著書に『無門関提唱』(大法輪閣刊)というものがある。野口晴哉先生の愛読された『碧巌録』と共に『無門関』というものは禅修行必須のものである。この中で『徳』について次のように述べておられる。

--------------------------------------------------------
ここに心得ねばならんことがある。さとりをひらいて、仏になにものぞという気概を得たからというても、前世からの宿福というものが積んでおらんと、たとえ、それだけの力を得る働く気があっても、いままでに善業を積んでおらんから、それだけの気概を具有していてもそこまでは働けないことがある。自然の徳というものを積んでいないからじゃ。だから、本当の道理がわかってくると、徳を積むということが本当にできる。それでこそ生々世々の大福音を得る本(もと)ができる。戦前の教育勅語に「智能を啓発し徳器を成就し」とある。智能を啓発するというのは、自分の能力の本(もと)、動力の本を啓くのじゃ。自分を動かすだけでなく、他の人の智能も啓くところに本当の修行がある。ここ間違えないように。・・・
--------------------------------------------------------

では、どうすれば『徳』を積めるのか。
その第一歩は『己の計らいを捨てる』ということだと思う。
あれこれ計算する自分、損得勘定、毀誉褒貶、利害得失を放擲して、天のあるがままに、自然のままに行為することだ。

自分が自分がの「我」を捨てて、人サマ人サマ、お陰お陰の「げ」でゆくのである。

「この世は前世の種(たね)次第」と白隠禅師は言うておられる。罪業・宿業とは実に恐ろしいものです。僕などはその人の持つ徳とか諸々のものがよくわかる。皆さん無防備だからよーく看える。人に影響あたえるのも、後世に何がしか残るのも、全て『徳』です。操法が、魂にまで及ぶのも、操法者の『徳』だと思う。影響ということに於いて、技術などはタカが知れているのである。徳という要素を、操法者で忘れている人が多いことに、操法家としての僕は嘆くものである。
| kawashima1092 | 02:25 | - | - | - | - |

Calendar

  12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728293031  
<< May 2018 >>

Profile

Recommend

Recommend

Recommend

Recommend

Recommend

Recommend

Search

Entry

Archives

Category

Link

Feed

Others

無料ブログ作成サービス JUGEM

Mobile

qrcode