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野中操法指導者 【自らの立処を問う】
整体操法では、立処(りっしょ)ということをいう。
自分の立ち位置というものを明確にする。整体操法においては、治療行為というものは無い。整体操法とは、潜在意識教育であり、彼をして自ら立たしむる技術である。本人すら分らないうちに、それを感応させる技術である。

自発ということが全てなのである。
客観的な身体、解剖生理学によるところの身体、そういうものの観点から整体操法を論ずることはできない。あくまで自分の主観的身体、内観的身体に感応するのが整体操法の真髄である。

このことは主客一体という悟りの世界に通じるものである。
ある整体の大御所は、整体生活から、この真理に到達している。それはチベットの古代からの教えに共通するものがあり、そのような修行に依らずして、整体生活のみで野口整体がそこに到達していることに、僕は心から敬意を表する。

そのような真髄の体得者がいわれるのには、身体には触れる順序があるということだ。整体における腹部調律点の五ヶ所、これもそうなのだ。順序正しく触れることで感応するのである。僕は健康線の整圧と共に、必ず第1〜第5の腹部調律点に愉気をする。

野中操法も同じことである。整圧の順序には意味があるのだ。感性があれば分ることなのだ。中には、整圧の順序を勝手に変えている愚かな者もいるが、感性がないからそんなことを勝手に作り出して指導している。指に力をつけるんだみたいなことを言って、まるで空手の突きみたいなくだらないことを教えている。操法者としての繊細な感性がないから平気でそんなことをやるのである。

はっきり云っておきますが、そのような変てこりんな稽古は野中操法には、ございません。こっちに苦情が来て迷惑しているので、明言しておきます。また、そのような変なことを教える集会に参加したことのある方は、自己申告してください。そうでない場合は、講習会のときに突然、退場をしていただくことになりますから。

要するに云いたいことは、立処ということなのです。丹田に力が無く、足元がフラフラしているから、勝手な順序、勝手な稽古法、勝手なやり方を教えたりする。そのほとんどが思いつきなのである。そういう筋の悪い変なことを教える者と縁を持つのも、自分がフラフラしているからなのである。自分の立処というものを考えていただければ幸いである。

自らを知らないというのは、実に怖ろしいものである。
仏道修行では、懺愧具足(ざんきぐそく)ということをいう。自らに愧じ、他人様に対して恥じることを意味する。このことは、どのような道をゆく上でも同じことが言えるであろう。天眼の修行をしてゆくと自他共に自ずからいろんなものが見えてくるのである。

僕の目指す『幻の整体操法』(野中操法・整体操法の統合法)は、天心に成りきることを目指すものだ。単なる治療・療術ではないことを確認していただきたい。それをもって世の人々を感応道交(かんのうどうきょう)せしむるのである。本気で同志になりたい人は修行をしてもらいます。どんな修行かって?やればわかりますよ。
| kawashima1092 | 00:27 | - | - | - | - |
野中操法 【操法の根源の力:『徳』】(その2) 
昨日は『徳』ということについて書いた。
良き影響を与えるのも、後世に業績が残るのも、操法が魂にまで及ぶのも、すべて『徳』次第だということである。

昔から「陰徳あれば陽報あり」という。
陰のお徳を積むことこそ尊いというのである。中国では「積善の家に余慶あり、不積善の家に余殃あり」という。古諺というのはとても含蓄がある。

僕は徳を積むために「己の計らいを捨てる」ことが先決だといった。
このことに間違いないのだが、では己とは一体なんなのかということが問題になる。人間には自己防衛本能というものがあり、自他を区別する。自分をまず守ろうとするのはあたりまえだ。それを、自分自分ではなく、人様人様にするのだと述べた。自分が真の意味で救われるためには、自分というものを放擲しなければならないのである。自他を区別するところに、迷妄があるのだと仏家は説くのである。

自他を区別する、こういう見解を「二元論」という。
自分と他者が切り離されているものではない境地、これを「悟り」というのである。この二元論のもとが煩悩であり、『唯識三十頌』などで説く、四我というものである。唯識とは仏教のほうの心識論であり、人間の意識をいくつかの層に分けて考えている。普通に言う表面の意識、意識下の潜在意識、更に奥の深層意識。近代の心理学的な意識の分類を数千年前から仏家はしていたのである。驚異的なことであると思う。

意識下の潜在意識のことを「第七マナ識」という。実は、ここに「自我」というべきもの、四我があるのである。四我とは、我癡・我見・我慢・我愛のことである。常住普遍の我れがあるという見解。我れがあるというおごり。我れに対する執着。我れの本質がわからない愚痴。人間の潜在意識には、このような識があると仏家は考える。確かにそれはそうで、滝行などの修行をするのは、魔境のもとである、この四我に対応するためであると言ってもよい。

徳を積むと言う場合、この自他を区別する心、四我というものを超克しなければ、真の意味での『積徳』にはならないのである。山本玄峰老師は、自然の徳、道理がわかってくると、といわれている。僕はさまざまな修行体験から、野口晴哉先生は本当に偉い先生だと感心する。整体操法に於ける訓練法は、まさしくこの「狭い我れというもの(四我)」を超克することができるものなのである。その技法によって、あるがままの天心になれるということである。「積徳」という観点から整体操法の技法を考えないのは惜しいことであると思う。野中操法によって腹を整え、腹部操法で臍下丹田に活を入れる。それによって操法を受けた方々を自立せしむる。幻の整体操法とは『積徳』の修行法でもあるのだ。
| kawashima1092 | 00:18 | - | - | - | - |
野中操法 【操法の根源の力:『徳』】 
決して短くはない治療人生で、一体なにが効いているのか分らないということがある。治療行為というのは、医者でなくとも「ラポール」を形成する。こういう特殊な関係性があると治療の効果は高い。技術が効いているのか、気持ちの変化により効いたのか分らなくなる。両々あいまってのことなのであろうが、どちらかというと気持ちの変化というのが大きいのではないかと思う。

では、何に拠って信頼関係は築かれてゆくのだろうか。人生経験があるからとか、人間性だとかいろいろな言い様や理由があると思う。僕をして言わしむれば(敢えて申し上げるが)、それは『徳』であると思う。

徳とか不徳とかいう。人間である限り誰でも「徳」はある。しかし不徳な行いをしていると、徳を損ずる。人の運や他人への影響というものは、「徳」というものが介在しているのではないかと思う。みなさんはどう思われるか?

臨済の傑僧に、白隠禅師の再来といわれた、般若窟:山本玄峰老師がいる。この方は、終戦の際に流れた「玉音放送」の中の、「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」という部分を述べたとして有名である。この老師の著書に『無門関提唱』(大法輪閣刊)というものがある。野口晴哉先生の愛読された『碧巌録』と共に『無門関』というものは禅修行必須のものである。この中で『徳』について次のように述べておられる。

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ここに心得ねばならんことがある。さとりをひらいて、仏になにものぞという気概を得たからというても、前世からの宿福というものが積んでおらんと、たとえ、それだけの力を得る働く気があっても、いままでに善業を積んでおらんから、それだけの気概を具有していてもそこまでは働けないことがある。自然の徳というものを積んでいないからじゃ。だから、本当の道理がわかってくると、徳を積むということが本当にできる。それでこそ生々世々の大福音を得る本(もと)ができる。戦前の教育勅語に「智能を啓発し徳器を成就し」とある。智能を啓発するというのは、自分の能力の本(もと)、動力の本を啓くのじゃ。自分を動かすだけでなく、他の人の智能も啓くところに本当の修行がある。ここ間違えないように。・・・
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では、どうすれば『徳』を積めるのか。
その第一歩は『己の計らいを捨てる』ということだと思う。
あれこれ計算する自分、損得勘定、毀誉褒貶、利害得失を放擲して、天のあるがままに、自然のままに行為することだ。

自分が自分がの「我」を捨てて、人サマ人サマ、お陰お陰の「げ」でゆくのである。

「この世は前世の種(たね)次第」と白隠禅師は言うておられる。罪業・宿業とは実に恐ろしいものです。僕などはその人の持つ徳とか諸々のものがよくわかる。皆さん無防備だからよーく看える。人に影響あたえるのも、後世に何がしか残るのも、全て『徳』です。操法が、魂にまで及ぶのも、操法者の『徳』だと思う。影響ということに於いて、技術などはタカが知れているのである。徳という要素を、操法者で忘れている人が多いことに、操法家としての僕は嘆くものである。
| kawashima1092 | 02:25 | - | - | - | - |
【野中操法基本技】制定委員会
3月29日の野中操法研究会の第二部では、野中操法の基本技の制定をしたいと思う。もちろん今回一度で決まるわけではない。野中操法そのものはその技法のみで完成されている特殊操法なのであるから。

僕は冗談半分で制定委員会などと云ってるのだが、野中操法研究会やその他の会の流れと合流し、あたらしい総合体的な健康療術が生まれる機運があると思う。今年のはじめに新年の挨拶を記したが本当に整体ルネッサンスが始まりつつあるのではないかと思う出会いがあった。

実は僕はまだ本当の野中操法の技を教えていない。やはりはじめに千人の人間にやらないと土台ができないように思う。少なくとも患者として来た人を千人ガチンコで野中操法を施さないと手が自在に使えないと思う。そのうち愉気法や気合法の訓練も含めて合宿で野中操法の訓練をしたいと思う。

整体ファンというか野口晴哉ファンというのは案外多い。やはり今でも伝説の整体操法指導者なのである。ある意味、神である。しかしいつも云うことだが、技術というものは神でなくとも、ある程度スジの良い者が練磨すれば習得できるものだと思う。

整体操法=野口整体ではない。野口整体というのは全生という生き方を志向する。野口整体=潜在意識教育と云ってよい。たしかに整体操法=潜在意識教育と表現されるが、原初の整体操法は1943年(昭和18年)に療術家たちによってまとめられた総合体的な整体の技術だったのである。だから原初の整体操法=潜在意識教育ではないのである。

すでにそのときから60年以上の年月が経っている。いま整体協会でも本当に整体操法の技術が使える人は少なくなってきていると存分している。嗚呼、悲しいかな、というころである。野中操法は整体操法そのものではないけれども、特殊操法として認められた第一の操法である。整体操法がなかなか習得できないと悩んでいる方は大いに学んでもらいたい。

僕のところでは、原型の野中操法だけでなく、関連のある急処に野口晴哉先生の整体操法も導入している。そこから整体操法に入ってゆくこともできるであろう。より多くの方々が野中豪策先生の発見した急処をご自分の治療や健康に役立てていただきたいものである。
| kawashima1092 | 00:58 | - | - | - | - |
【野中操法放談(2)】 =野中気合道・手掌法の真実=
最近、どこぞのブログで以下のような記事を見かけた。
関西地方で気合などを教えている佐々木了雲さんの生徒だった方の文章だ。
文中に『野中豪策先生から学んだ 気合道、手掌法などなど。』と明記されている。しかし残念ながら野中先生が気合道なるものを教えた事実はない。佐々木了雲さんという方は昭和22年の生まれである。野中豪策先生は、昭和25年に逝去されている。3歳の子供が、野中豪策先生から教わったということはないだろうし、その当時の門人の先生もそういう子供はいなかったと話されている。

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2009年01月22日
微動法
僕は、24歳の時に東京の笹塚にあった
自然操法協会の佐々木先生に師事し多くの事を学んだ。
肥田春充先生が考案した
中心道、食事療法、微動法。

野中豪策先生から学んだ
気合道、手掌法などなど。

特に気に入ったのが微動法。
自分の体を振動させると緊張が取れ身も心もゆるみます。
その振動を掌を通し相手の体と共鳴し合うという方法。
最近、僕は考え方が変わりました。
マッサージを長くやってきましたが、
相手の悪い処を意識しほぐすという、
やり方は自分に負担がかかります。
でも微動法は、自分が主。
相手をほぐしてやろうとか、痛みをとってやろうという
考えは必要なし。
ただ自分の体をゆらしているだけ。
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上記のブログを書いた方、ご不審の点あらば、僕のところにお問い合わせ願いたい。野中豪策先生が教えていないもの(気合道・手掌法)を教えたとしていることは野中操法を奉ずる我らとしては、等閑に捨て置くことはできないことなので。できれば佐々木先生ご本人から事の真偽を御伺いしたいものだ。

| kawashima1092 | 00:00 | - | - | - | - |
【野中操法放談(1)】  =第四健康腺について=
昨日、弟子の一人から「第四健康腺というのは何ですか?」と質問された。
どういうわけかを聞いたのだが、すぐに理由がわかった。
健康腺療法を施術されている或る先生が「第四健康腺」などという名称を使っているらしいということだった。
このことについて僕は承知している。
部位としては、鎖骨の下部であり、整体操法でいうところの「胸部活点」あたりのことだ(鎖骨の禁点の部位ではない)。
しかし、本来の野中操法(健康腺療法)には、「第四健康腺」というものはございません。これは、はっきりしていることだ。
まあ、効果効用の真偽のほどは判らないが・・・。
野中操法の創始者:野中豪策先生も、正統後継者だった吉田禎克先生も「第四健康腺」なるものを教えていないし、伝授していない。

そんなことは瑣末のことであり、我が野中操法研究会では伝承された通りの『型』を忠実に学ぶという指針を崩さないでやってゆくだけだ。問い合せてきた弟子にも、そのように伝えた。

かつて野中豪策先生は、或る東大の教授からこう言われた。
「野中さん、あなたの治療は非科学ではなく、未科学だ。あと50年たてば
科学もあなたの治療を解明できるようになるだろうから『型』だけは残しておいてくれ」と。
そして60年以上の歳月が経った。
『型』の存続すら危うい時期に、正確な『型』が復刻でき、少人数ではあるが操法の現場で使っている。講習会も数回開き、この1月24日には、4名の方々に『準段位』を認定する。
野中豪策先生の思いというものを、現代において忠実に受け止めて、野中操法研究会で実現していると、僕は確信している。
研究会の正式メンバー(準段位以上)は、操法の極意を後世に残す使徒のようなものだと考えており、正式メンバー集会では、更にプロ仕様の勉強に踏み込もうと思っている。
| kawashima1092 | 00:00 | - | - | - | - |

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