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野口晴哉述【潜在意識教育】(4) =漠たる一点(4)=
野口晴哉述【潜在意識教育】=漠たる一点=の最終回。
最後の引用をしたいと思う。

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   漠たる一点

・・・それ故、不快が精神の方向づけを行なうことは快の多い人に多いため、屡々見逃される。王冠は単なる頭痛をも癒さぬとこぼしておられるマーガレット妃のことを口にする迄もない。それ故に快多ければ不快も多く、従って精神的理由によって生ずる肉体的故障は快少なき人には少ないのである。まことに公平なことながら、精神指導を表面的観察から出発して為し得ない理由なのである。しかし、快不快の感覚の多くは、一瞬に来たって一瞬に去る。しかも快はそういう刹那的な場合が多いのに、不快は残る。不快が不快として残るのではなく、恨み、憎しみ、嘆き、悲しさとして残るので、当の製造者たる不快は多くの場合瞬間にして行方知らず、ということになる。この行方も知れぬ漠たる一点が、実に心理的理由による一切の心身上異常の立役者なのである。
(完)
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「不快(ふかい)」という文字ばかり書いていると、なんだか不快になるようで、おもしろいものです。不快=ふかいという音を聞いていると、宮崎駿監督の『風の谷のナウシカ』というアニメを連想してしまう。あの物語の場合は「腐海(ふかい)」と表記するのだが・・・。

人間は文明を築いてその果てに「腐海」を生んでしまった。しかし腐海は人間を蝕むものではなく、大地を浄化するための自然の働きであった。腐海の植物達が出す「瘴気(しょうき)」は大地の浄化のためだった。唯一人、主人公ナウシカだけがこの「腐海」の謎を解いた。詳しくはアニメをご覧頂きたい。

人間の「不快」は毒としてではなく、心身の異常として現出する。そして製造者たる不快はどこへ行ったかわからないという。始末におえない。野口晴哉先生は、この故に「一側」を観察したのである。この処に心理的なものが現れるからである。礼をし右に位置し、愉気をする。これが重要。愉気法により背骨が教えてくれるようになる。魂の感応を果たすのだ。

野口晴哉著『体運動の構造』において「整体操法は潜在意識教育だ」と明確に述べておられる。野口整体の「体育」というのはこのことなのである。野口晴哉の創成した体系が単なる治療術でないのはこの辺なのだ。しかしながら在野で整体操法を為すためには、治療的行為が必要だ。その最高峰が野中操法である。前回、打撲について述べたが、この打撲の認識はとても大切なものである。説く機会もあろうが、整体操法における、この打撲処理においても野中操法は整体操法の原型を有しているのである。このことは、誰一人説いていないし、判らなかった。この一点をもって野中操法が復活したと断言できると自負している。
| kawashima1092 | 09:08 | - | - | - | - |
野口晴哉述【潜在意識教育】(3) =漠たる一点(3)=
野口晴哉述【潜在意識教育】(2)=漠たる一点(2)=
の続きである。例よって引用する。

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  漠たる一点

・・・ところが実際に心身に残る異変は、この不快によって方向づけられている場合が一番多い。恨み憎しみすら一瞬の不快によって方向づけられた感情上の産物に他ならない。固応の働く傾向を方向づけるものも又不快なのである。不快を見逃して精神指導はないと申しても過言ではない。しかし、不快を不快と感じ得るのは、快というものがあるからに他ならない。それ故、快が不充分な者は不快も不充分である。粗食に慣れた人が粗食を不快と感ずることは少ないが、美食に慣れた人は粗食を粗食と感ずる如くである。それ故、不快が精神の方向づけを行なうことは快の多い人に多いため、屡々見逃される。・・・・
(つづく)
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次回で『漠たる一点』の引用はおわります。
今回の引用部分で大切なところは、

『不快を見逃して精神指導はないと申しても過言ではない』

というところであろう。
野口先生は言い切っている。正確な観察によって、その人における「不快」というものが判るのであろう。では何によってそれを観るのかということが操法をやるものが大事としなければいけない問題である。

野口先生は言っている“判別困難” なことが多いと。

個人の素質として知っておくと便利なものに『体癖』がある。これは野口晴哉先生の独自のものである。元になるものは、どこかにあったかもしれないが、あれだけ観察しぬいて、体系化したのは野口晴哉をもって嚆矢といってよいであろう。

しかしこの『体癖』が曲者なのだ。なかなか判らないものだ。だから先ず読み物として、体癖に関した書籍を購入して読むことからお勧めする。野口先生の『体癖機Ν供戮ベスト。片山先生の本も、まあ判りやすいかな。あんまり深刻になって見分けるなんて考えないほうがいいです。

所詮人間は、生き物ですから本能がある。受け入れられていると本能がわかれば心を開きます。ご本人が自然に教えてくれるというのが本来のあり方です。技術が上手になり、観察もできる、そんなふうに一流大家になると「俺の技術観察で治したのだ」なんかなりがちです。

キリストは、死んだ人間を蘇らせても「俺が生き返らせた」なんて一度も言わなかったでしょ。操法者は「慢心の陥穽」に嵌まらないように気をつけていただきたいなぁと思う。

『漠たる一点』の最終回は、どのようにして観てゆくのかを論じたいと思う。
| kawashima1092 | 08:15 | - | - | - | - |
野口晴哉述【潜在意識教育】(2) =漠たる一点(2)=
以下に野口晴哉述【潜在意識教育】「漠たる一点」の原文を示そう。

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    漠たる一点

人間を動かすものは意識そのものではなく、意識の下にある潜在心である。精神指導において特に重要な問題は、この潜在心の分解調整のため、固応又感情を検討することである。
固応とは固定観念が応化し自己化しているもので、先入主的偏見の出発点である。その中においても自分という固応の訂正はもっとも難しい。潜迫感情中、恨み、憎しみ、嫉妬は大きなものであるが、大きいだけ見出し易いが、不快という簡単な、一瞬に流れ去ったはずのものが占むる場所は頗る大きいのに、存在は極めて小なるため判別困難なことが多い。ところが実際に心身に残る異変は、この不快によって方向づけられている場合が一番多い。
(つづく)
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整体操法における『潜在意識教育』の真髄の話に踏み込んでいる。日々、治療をしていて感じるのは、この「不快」をもとにした固応が患者の病状に大きく関与しているということだ。野口晴哉先生は、声なき声を聞くことができた方だったのであろう。背骨の側の第一側といわれる処に触れて、その人の声を聞くことができたのであろう。そういうことは、天武の才能と深い愛がなければできないと僕は思う。だから我々は、深い愛や慈悲というものを真に体現できるように、一生修行しなければならないのだ。30歳や40歳ぐらいで真の愛など持てるわけがない。野口先生の幼少期や少年期をみよ。大変な苦労をしている。あれだけ過敏であったがゆえに、どれほど傷ついたか。傷ついた分だけ、人の痛みがわかるのだ。声なき声を聞き、理解してあげることができる。このことは操法家以前の問題として大切なことである。

では、野口先生のような天才でない我々はどうすればいいのか?
先の通り、真の愛、慈悲を体現できるように、すべての枠を取り払って一生励めばいいのだ。このようなことは、ブログの記事ではなく、直接会ってお話してゆきたいものだ。
次に、体系の急所を学ぶことだ。
「整体操法」「潜在意識教育」どんなものでも急所があるから、それを学び、現場があれば現場で、家庭なら家庭で、実践しながら練りこんでゆくことだ。僕などは「不快」などの固応を一瞬で見分けることなどできない。しかし、時間的経過の中で、患者が自ら教えてくれるようになる。手で触れるということ、気を通すということは、不快を発現させる道具としてなくてはならないものだと感じている。このへんのことは今後も研究を続けて、研究会の皆さんと共に深めてゆきたいと思う。

体調、病気、こころ、寿命、これらの問題に関して「不快」というものと「打撲」というものは、とても深く関連している。整体操法なり野中操法はこのことに関してどのような対応、答えをもっているのか。整体操法のみならず、手技療法の究極の問題あると、僕は考えている。

次回「不快」についての解説を、引き続き野口先生にしていただくことにしよう。
| kawashima1092 | 11:54 | - | - | - | - |
野口晴哉述【潜在意識教育】(1) =漠たる一点(1)=
整体操法を体得し、野中操法を活かしきるの道は、それぞれの技術の練磨が大切なことは申すべきもないことだが、心の問題、潜在意識教育というものを理解し駆使できるようになることが、その要諦であると考える。操法家というものは、病気の治し屋ではない。病気ですら、自然良能の働きの一つだというのが、土台の考え方なのである。

野中操法(健康腺療法)は、かつて『療術界のペニシリン』といわれる程の治効をもたらす療術だった。あまりの効果あるゆえに、治療師が自分で病気を治したのだと勘違いすることしばしばだったという。いくら病気を治したとて、それはその本人に生きる力があるから、病気も治るのであって、命の力の前には、一治療師の力など大したものではない。だが、優れた治療法を得たものは多くの場合、この陥穽に嵌まるのである。だから整体操法の基本的な考え方、土台を学ぶことが大切なのである。

人間の心だけでなく、体すら動かすものが、潜在心だと野口晴哉は言う。
我々、操法を志す者は、整体操法創始者である大巨人の話に耳を傾けてみようではないか。
次回から連続で、野口晴哉述【潜在意識教育】の中の「漠たる一点」と題する文章を2回に分けて記述しよう。

                                        川島金山 記す

| kawashima1092 | 00:35 | - | - | - | - |

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